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為信の津軽統一

○南部氏支配下の津軽

 南北朝合体後、三戸南部氏が津軽地方へ進出し、津軽十三湊の安藤(安東)氏と抗争を繰り返します。一時南部氏は津軽平野内陸部から外ヶ浜一帯を掌握します。南部氏は蝦夷支配権を得たかにみえましたが、勢いを盛り返した安藤政季が1470年(文明2年)、再び西津軽や北津軽を奪還しました。その後、室町幕府の仲介のもと、南部氏は津軽内陸部、下北など旧安藤領の支配権を獲得しました。
 その後、南部氏は一族を各所に派遣し、領国支配を強化する方策をとりました。その過程で、津軽へ派遣されたのが津軽氏の始祖 南部(久慈)光信です。
 光信は大浦氏を名乗り、勢力を広め津軽へ進出し、1502年(文亀2年)には鼻和郡賀田(現弘前市)に大浦城を築きました。大浦氏は為信に至るまで同城に居城し、やがて、勢力を拡大しながら南部宗家から独立的な行動をとるようになります。

種里城

○為信の津軽統一

 津軽氏の独立は、大浦為信が津軽地方の統一をなしとげ、豊臣秀吉から津軽3郡の領有を認められた1590年(天正18年)に始まります。そこに至るまでは戦国大名南部氏の勢力下にあった津軽地方の自立の過程であったといえます。
 為信の津軽統一の開始は、南部氏の津軽支配の要となっていた石川城と小山内氏の和徳城を1571年(元亀2年)に攻略したことに始まります。堀越城を本拠に、勢力を拡大していきました。次いで1576年(天正4年)に、中世津軽の一中心であった大光寺城を占領し、平川沿いの一体を支配下に治め、1577年(天正5年)、黒石に楯をつくり、翌1578年(天正6年)、浪岡の北畠氏を攻撃して滅ぼしました。そして、南部氏の津軽に対する支配の回復を目指す勢力との抗争を繰り返しながら、1585年(天正16年)に飯詰の高楯城を攻略し、石川城の攻略から17年を経て為信による津軽地方の統一がほぼ完了しました。

津軽為信木像

 1590年(天正18年)には為信自ら小田原在陣の秀吉へ赴き、津軽3郡、合浦一円(外ヶ浜地域)の支配を秀吉から認められ、津軽氏を称しました。津軽氏は奥羽地方の諸大名、伊達、戸沢、秋田、最上の諸氏とともに、秀吉のいわゆる「奥州仕置」においてその地位を認められ、近世大名として全国政権に組み入れられました。

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