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東北戊辰戦争と斗南藩成立

○野辺地戦争戦死者の墓所

野辺地戦争戦死者の墓所

 1668年(明治元年)の、東北では、奥羽25藩と北越6藩からなる奥羽羽越列藩同盟が成立し、東北戊辰戦争が勃発しました。弘前藩は同盟には参加したものの迷いは深く、京都における情報を検討して、同盟から脱退。新政府から盛岡藩征討を命じられ、南部量の野辺地で両藩は武力衝突しました(野辺地戦争)。
 盛岡藩側の損害は軽微であったのに対し、弘前藩側の死者は、司令官小島左近以下数十名に上りました。翌1869年(明治2年)9月、弘前藩戦死者のうち27名を祀る4基の墓石が国費で建てられたが、1908年(明治41年)5月再建されました。
 墓所の面積は33メートル×25メートルで825平方メートル、墓域内には数十本の老松が茂り、サワラの生垣が巡らされ、花こう岩の踏み石が敷かれるなど参詣しやすいよう整備され、恩讐を越えた供養も行ねれる霊域となっています。近代日本国家建設の裏に隠された痛ましい史実をしのぶことができる史跡として本県唯一のものです。

○東北戊辰戦争と北奥

 1868年(慶応4年)正月、鳥羽・伏見の戦いに端を発して戊辰戦争がはじまりました。新政府は徳川慶喜をはじめ会津藩主松平容保らを朝敵と断じ、官位を剥奪して入京を禁じました。3月に入り、奥羽鎮撫総督九条道孝は、鹿児島・長州・福岡の藩兵を率いて京都を発し、仙台に入りました。早速会津征討を命じましたが、仙台藩をはじめどの藩も動こうとせず、しかも会津と庄内両藩は同盟を結んで攻撃をうけて立つ構えをみせた。5月、奥羽25藩、越後6藩からなる奥羽越列藩同盟が成立して、会津征討の中止を訴えました。
 弘前藩は旗色を鮮明にせず情勢の推移をみながら、その間に武備の充実をはかるという方針でした。同盟には参加したものの、秋田に出張していた藩士からは同盟不参加の意見がでるなど深い迷いがありました。この間、京都留守居役の西館平馬が、津軽家が本家と仰ぐ近衛家から、勤皇にはげむようにとの令書と岩倉具視の書状を持参しました。これらの令書と西館のもたらした京都における情報を検討して、弘前藩は藩論を勤皇に決定しました。
 八戸藩主南部信順は鹿児島島津家の出身であり、鹿児島藩からの付け人の助言もあり、本藩盛岡藩の動向もみながらも同盟派として決定的な行動はとらなかったようです。
 全国的にみて戦局はしだいに官軍側に有利に展開していき、1868年(慶応4年)8月、弘前藩は盛岡藩征討を命じられ、このような情勢の中で立案されたのが南部領野辺地攻撃でした。9月22日、弘前藩藩兵は野辺地に侵攻し、翌日未明より攻撃を開始しましたが、敵陣に向けて放った火に逆にあおられて田地で動きがとれなくなり、戦死49人をだしました。
 このとき活躍したのが、八戸勢の鉄砲隊・猟師たちであったといいます。野辺地戦争は津軽と南部の積年の私怨という評価があるが、実態は弘前藩による官軍参謀や総督府に対する信頼の回復、忠誠心をみせる必要から行われたものでした。戊辰戦争で弘前藩一度の戦闘でだした戦死者としては最大であり、その後の近代青森県を構成していく南部領・津軽領の双方にとっては悲劇であったといえるでしょう。
 1868年(明治元年)9月、最後まで新政府軍に抵抗した会津藩は鶴ヶ城の落城により、瓦解しました。これによって藩主松平容保は、東京に送られ謹慎させられたが、翌2年に家名の再興が許され、藩の再興がはかられました。同年11月、容保の実子容大は表高3万石を与えられ藩名を「斗南藩」とし、旧南部領の北郡・三戸郡・二戸郡の金田一村以北、北海道の四郡が斗南領とされ、陣屋を下北郡の田名部におきました。

円通寺

○北奥民衆と箱館戦争―青森瀧屋伊東家の明治維新

 1868年(明治元年)10月、奥羽鎮撫総督府は会津降伏により東北平定を宣言しました。しかし、まもなく箱館府知事清水谷公考から榎本武揚が率いる旧幕府脱艦隊が箱館に迫っており、至急援軍を送ってくれるようにとの知らせが届き、これに対して弘前藩は急いで4小隊を差し向けました。榎本の蝦夷地への進出と南部地方の占領は、盛岡・弘前両藩が箱館警備の派遣兵を撤退させたことがそれを容易にさせ、これから半年以上におよぶ箱館戦争の原因の一つともなりました。
 11月、弘前藩は奥羽触頭を命じられ、青森は新政府側の箱館戦争の前線基地となりました。青森が後方の兵站基地になるにしたがって、榎本軍の動きも活発になり、11月、旧幕府脱艦の回天丸ほかの船が陸奥湾に入ってきました。
 翌1869年(明治2年)には榎本軍に雇われた間者(スパイ)が南部へ渡って、それから青森に潜入してきて捕らえられたといいます。吟味が終わって間者は青森の前浜で斬首されましたが、その以後も間者の捜索はきびしかったとあり、それはとりもなおさず間諜の暗躍が新政府軍も榎本軍も、ともにすさまじいものであったことを示していえるでしょう。
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