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果樹(りんご栽培の歴史、りんごの生産・販売・加工)

 本県にりんごが入ってきたのは、明治政府の旧士族を対象とした勧農政策によってでした。県下一円に試作された勧農寮配布苗のうち、順調に成育したのは弘前、黒石地区のみでしたが、この良好な成育に着目した人々が現れ、自力で苗木の導入をし、人々への啓蒙をはかり、これによって植栽が進展するとともに様々なルートから苗木が入り、りんご栽培が広がってきました。
りんご

 青森県のりんご生産は、決して行政主導ではなく、常に民間リーダーの指導の下で生産者の自主的、積極的な取り組みが先行して、それを行政が強力にバックアップしていく関係を特色としていました。
 戦後の急激な生産拡大は、毎年の収量が著しく不安定という傾向をともない、農家における栽培技術の個人差と地域差が問題点として浮かび上がり、「青森りんごの危機」という認識が県全体で共有されることになり、1956年(昭和31年)には県りんご安定生産本部が結成されました。それ以降、全県を挙げた「りんご生産安定運動」が開始され、この運動を通じて青森りんごの栽培技術は全県的に革新されてきました。具体的には、剪定の理論化、人工授粉の普及、動力嘖霧器の導入と共同防除の開始、施肥の増大、耕耘機の普及等々です。
 こうした栽培技術の一新を背景として青森県のりんご生産は安定してきましたが、品種の面から見ると、この時代の特徴は、紅玉と国光が、全体に占める割合は約9割、国光だけで6割近くというように品種構成が偏っていました。このようななかで、1960年代に入ると、しだいに両品種の価格は低迷し始め、りんごの経営的に見た収益性も低迷することになりました。こうした青森りんごの価格低迷は、1963年(昭和38年)のバナナ輸入の自由化からさらに深刻化し、そして、りんごとバナナ、みかんの競合が決定的となったのが、1968年(昭和43年)で、いわゆる「山川市場」といわれるりんご大不況をもたらしました。
 国光の価格暴落が契機となり、翌年から官民を挙げて栽培品種の更新が展開されました。更新候補とされたのは、スターキング、ゴールデン、ふじ、陸奧などの甘味が強く高級品とされたデリシャス系品種でした。この品種更新の過程で、対照的な動きを見せたのがスターキングとふじです。スターキングは、国光に替わって一気にトップの座に上りつめましたが、また消えていくのも早かった。一方、ふじは「味をつくり」「味を売る」りんご作りが浸透していく過程で着実に作付を伸ばし、世界的な品種へと成長していったのです。
 なお、青森県が、日本一のりんご生産量を誇るようになった理由の一つについて、『よくわかる青森県の産業史と21世紀の展望』((一般財団法人)青森地域社会研究所発行)では、「全国的にもほとんど例のない旧藩主津軽承昭による地主からの土地取上げと、15俵以上の家禄を有していた旧士族へのその土地の分配にあると筆者は考える。」としています。
 今日、本県産りんごの主力品種は「ふじ」であり、全生産量の45%程を占めています。この品種は藤崎町の農林省りんご支場で開発されたもので、そのため藤崎の藤から命名されたものです。また、「つがる」「世界一」「陸奥」といったりんごの有力品種は、青森県りんご試験場において誕生したもので、「千秋」は青森県人が秋田県果樹試験場において、生み出したものであるなど、りんごの品種の育成にも、青森県は大いにかかわってきました。

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